宇能鴻一郎 『夢十夜』 理想を現実にして生きるために必要なこと 【緒形圭子】
「視点が変わる読書」第15回 『夢十夜』宇能鴻一郎 著
◾️軽妙な文章の原点が、重厚で力強い文章であった
宇野さんといえば、「あたし、いけない女なんです」「課長さんたら、ひどいんです」など女性の告白体で書いた官能小説が有名だ。あの軽妙な文章の原点が、これほど重厚で力強い文章であったとは!
宇能さんの文章に魅せられてしまった私は、新作を書いてもらおうと思い立った。それも官能小説ではなく、重厚な文章で綴られた純文学小説だ。周囲からは絶対無理だと言われたけれど、自分なりに必死にテーマを考えた。
夢十夜。
このタイトルでまず想起されるのは夏目漱石の短編小説だろう。別れた女が白い百合に化して再生する第一夜をはじめ、幻想的で怪奇な風景が十夜にわたって描かれている。
「宇能鴻一郎先生の『夢十夜』を書いていただけないでしょうか。枚数や書き方は自由ですが、官能小説ではなく、純文学小説として書いてください」
こんな文言を入れた原稿執筆依頼書をおそるおそる郵送でお送りしたところ、いきなり編集部に電話がかかってきた。
「宇能ですけど。面白そうなので、書きますよ。一度打ち合わせに家まで来てくれませんか」
受話器を持つ手が震え、呼吸が苦しくなったのを覚えている。
そして伺った、横浜市六浦にあるご自宅の前で再び私は震えた。
それは木々が植えられた広い敷地(約600坪)に建つ、まるでドラマに出てくる貴族の邸宅のような洋館だったのだ。
インターホンを押すと、女性の声が聞こえ、そのまま門を開けて入ってくるよう指示された。玄関の前に立つと、扉が開き、小柄な女性が現れた。宇能先生の秘書だという。
そこから通された部屋は100平米もあるのではないかと思われる洋間で、真っ白な壁に金の葡萄の装飾が施されていた。置かれている調度は全てアンティークで、フランスの貴族が使っていたかのようなソファに座り、緊張していると、赤い絨毯が敷かれた回廊式の階段を堂々とした風格の男性が下りてきて、「やあ、初めまして。宇能鴻一郎です」と名乗った。白いシャツに、チャコールグレーのスラックスというシックな装いだった。メディアでの露出を嫌い、姿を見たことのある人がほとんどいないという作家が目の前に立っていたのだ。
打ち合わせは問題なく終わり、秘書の女性が出してくださったお茶を飲みながら私が部屋をきょろきょろ眺めていると、宇能さんが言った。
「ここはボールルーム、つまり舞踏室です。毎月一回、ここでダンスパーティを開いているんですよ」
その日東京に戻った後も私は、現実との距離がうまくとれず、たまっているゲラチェックもできないまま、ただただぼーっとしていた。
宇能さんの原稿は毎回、原稿用紙に直筆で書いたものがFAXで送られてきた。それを読み、パソコンで入力しながら私は、宇能さんが描きだす世界に文字通り、酔った。
第一夜の「ヴィナス」は自分が少年期を過ごした満州での日々が綴られていた。
コソ泥に入ったロシヤの司令官宅で全裸で給仕をさせられた話――。
司令官夫人は少年が汚い恰好をしていたので、給仕をさせる前に浴室に連れていき、自分の手で少年の体を洗った。
口に押しつけられた夫人の下腹の柔らかさ、息苦しさ、剛毛の痛さとジャリッとした感覚。口に入ってしまったシャンプーの奇妙な味。これはそののち何度も夢で再現されたその時の光景に、後付けされた記憶なのだろうか。夫人の臍にはひときわ大きい水滴が体毛に宿り、冬の光線で七色にきらめいていたと覚えているのも、のちに知ったベリーダンサーの臍にはめられた巨大な宝石からの後付け記憶かも……どこまでが現実だったのか、今では確かめるすべもない。(「第一夜 ヴィナス」)
宇能さんは自分の中の官能や猥雑さが培われたのは、満州で過ごした少年時代だったと、文藝春秋のインタビューで語っている。
第二夜「殉教」、第三夜「少年」、第四夜「羅馬」、第五夜「聖牛」、第六夜「谷崎、三島」、第七夜「福岡」、第八夜「秘密」、第九夜「鮎子」、第十夜「愛人」と小説は続いた。
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